難病医学生の闘病日記
久しぶりの投稿となります。今日は自分の中で一つの節目の日となったので今の心境をつらつらと書こうかなと。
今日で病気の治療がひと段落つき、「寛解維持」(病気が落ち着いたねということ)という判断をしていただけました!
1年間の闘病生活がようやく一区切りしました。個人的には激動の1年間でした。病気を宣告されたときから考えると1年半。もちろんもっと長い闘病生活で頑張ってらっしゃる方もたくさんいると思いますが、個人的にはとても長く感じました。
フェーズ毎で自分の気持ちを振り返って書いていきたいと思います。興味があればお付き合いください。
難病宣告
去年の2月、今までと何も変わらずダラダラと毎日を過ごしていた日々。いつもと変わらないと思っていた健康診断の尿検査でまさかの再検査。
何かの間違いだろうと思ってもう一度検査を受けた。医者から言われたのは「大学病院に紹介するのでできるだけ早く受診してください」
頭の中が真っ白になった。ない知識で自分の病気が何か必死で考えた。それでもまだどこか検査のミスだろうと信じたかった。
3月。医師からの宣告。「IgA腎症(腎臓の病気、治療法がまだなく難病指定されている)だと思われます。検査入院が必要です」それ以降医師の言葉は耳に何も届かなかった。何か悪いことをしたのだろうかと必死に考えた。この前飲み会の帰りに立ちションしたからか、それともスーパーで箸を5本くらいもらったのが原因か。月並みな言葉ではあるが「なんで自分が」。その時の心境を表すのはまさにこの一言に尽きる。まして、医師を志していた自分が病気。しかも治療法が効くかもわからない難病に。
医学部では必ず「キューブラー・ロスの死の受容」というものを学ぶ。これは患者の心理を5段階で表したもので、否認と孤立、怒り、取り引き(祈り)、抑うつ、受容に分かれる。今まではただの勉強するだけの用語であったこれらのものが一気に自分に襲いかかってきた。(自分の場合は死ではないが)
この時はまさに「否認と孤立」であった。病気であることを認めたくなかったし、嘘だと信じたかった。おそらく人生で一番泣いた。受け入れる事なんてできなかった。怒り、神に祈った。何でもするから治してくれと。春休みはアホみたいに遊びまくった。逃げたかった、病気という現実から。しかし何をしていても頭の片隅には病気のことが常にあった。
検査入院
5月。人生で初めて入院した。まだ自分が病気という自覚はあまりなかった。しかしこの後僕は人生で出会ったこともない痛みに遭遇するのであった。
それは尿道カテーテルである。尿道カテーテルとは手術や長時間動けない人、排尿が難しい人に対して、尿道に管を入れて自動的に排尿させるものである。
激痛という言葉では表せない痛みであった。そんな太い管が本当に入ると思っているのか?これを考えたやつは本当に人間なのかと思った。
尿カテ入れることに比べたら腎生検の痛みなど屁でもなかった。その後1日はベッド上安静
で寝返りも禁止。動けないことがこれほどにツライとは思ってもいなかった。尿カテ&ベッド上安静のコンボが22年の人生を振り返ってもこれに勝る痛みは未だにない。
入院
6月。IgA腎症と確定診断され、治療のために1ヶ月半の入院が必要となった。実習の関係上
夏休みしか入院できるところはなかった。
その時ふと脳裏をよぎったことは「東医体行けないのか」ということだった。当時自分は部活の幹部をしていたこともあり、練習試合を組んだり、遅くまでミーティングしたり。全ては東医体でみんなで笑って優勝するためだった。それなのに東医体に行けない。頭では分かっていたつもりだったけど、やはり部活は自分にとって大きな居場所だったということを再認識した。
この時には自分はもう病気については受容していた…つもりだった。
7月中旬。入院生活開始
CBT(実習に行くためのテスト)直前だったこともあり、入院中でも勉強しなきゃいけないことは分かっていた。
点滴、勉強、昼飯、勉強、夜飯、勉強の何もない生活。
白い部屋、白い天井、白いカーテン、何もない空間。
それら全てが僕の心を蝕んだ。何もできない、苦しい、息が詰まる。
虚無感。それしか感じなかった。みんな夏休みで遊んだり、部活してる中なんで自分はこんなに苦しまなければいけないのだろうか。受け入れたつもりだった病気について嫌でも24時間考えさせられた。
辛い入院期間なんとか耐えられたのは家族の支えとお見舞いに来てくれた友達だった。周りの人に支えられてることを本当に実感した。いくら感謝してもしきれない。ありがとう。
退院、通院
8月下旬。辛かった入院生活も無事に終わり、後は治療の成果を外来で徐々に見ていくとのことだった。なんとかすれすれでCBTも合格できた。
2ヶ月に1回の外来。いつもドキドキした。難病であるから治療が効かないこともあるとは事前に言われていた。病気が進行していたらどうしよう。検査の値が良くならなかったらどうしよう。入院が終わっても気が完全に休まることはなかった。
それでも徐々に病気と長く付き合っていくために何をすれば良いかを理解し始めた。昔のような激しい飲酒、暴飲暴食は禁止。塩分やタンパク質を控えるために自炊をしたり、過度な運動は控えたり。
1月。この生活にも慣れ、気が緩み始めた。あまり食事も気にしなくなったり、薬を飲み忘れたり、旅行に行ったり。まさにそのツケが検査値に表れた。今まで横ばいであった検査値が唐突に悪くなったのだった。
後悔した。まだどこか甘く見ていたのだと思う。やっぱり治るじゃんと。
そこからは本当に生活を見直した。毎日自炊したり、水分を多くとったり、薬の記録をつけたり。何種類もの薬を毎日同じ時間に欠かさず飲むということがどれほど難しいことかを実感した。老人にはもっと大変だろうと思う。
7月。ついに予定していた外来の最終日。これで何もなければ治療は完全に終了。いつも以上に緊張した。病室に入るとパソコンを見ながら先生が黙っていた。祈りながら先生が口を開くのを待った。しゃべり始めるまでの間異常に長く感じた。
「よく頑張ったね、寛解維持できてるから治療はこれで終わりだよ」
急に言った先生の言葉に涙が出た。やっと、やっと…。
まとめ
意外にも病気になって失ったものよりも得たものの方が大きかった。
病気、自分の人生と嫌でも1年間向き合わされたことで自分が人生で何をしたいのかを考えさせられた。
本当に医者になりたいのか。これが最大のテーマだった。
医学を志した理由として人に言えるほど確固たるものは元々持っていなかったため悩んだ。あまり医学は好きではなかったが勉強したり実習することで面白さが少し分かった気がする。
自分に何ができるかまだわからない。
しかし医師×患者である自分にこそのかの人にはない価値があると思っている。
「患者の痛み」というものは医師にはわからないということが自分の経験を通してはっきりと理解できたからだ。
医師以外の選択肢があるということを知れたのも自分の中では大きかった。医師でありながら、他の活動(例えば作家、ミュージシャン、起業、シェフなどなど)をしてる人がたくさんいた。今はそんな人たちの話を聞くのがすごく面白いと感じている。縛られなくていい、やりたいことをやればいい。
医師としてだけではなく、1人の自分という人間として価値を持たせられるよう、後悔しないように生きていきたいと今は思っている。
病気になったことを後悔するのではなく、気付けたことを大事にして後の長い人生上手いこと腎臓と付き合っていきたいと思います。
長くなりましたが読んでいただいた方ありがとうございます。
世界史から見る感染症シリーズ〜第3弾コレラ〜
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
本日は第1、2弾と大変好評だった『世界史から見る感染症』シリーズ第3弾をお送りしたいと思います。
今回紹介する感染症は
コレラ
です。つい先日再放送していたドラマ『仁-JIN』でもこの「コレラ」という病が登場していましたね。名前は知っているという方も多いと思います。
ドラマでは南方先生がペニシリンを独自に開発することによって、治療法を確立しました。
しかし実際にペニシリンが発見されたのは1929年で実用化されるのは1942年なので当時の江戸ではまるで太刀打ちできなかったでしょう。後述しますが江戸時代にコレラが流行し、江戸だけでも10万人が死亡したと言われています。
というわけでコレラについて見ていきたいと思います。
目次
コレラの症状
コレラ菌と言われる細菌によって引き起こされる感染症。
これら菌に汚染された水や食べ物を口にすることで感染します。
症状としては12時間から5日ほどの潜伏期間を経て激しい水溶性下痢(水っぽい)、嘔吐が起こります。
重症の場合は1時間に1リットルの水分が失われるため、脱水症状やカリウムなどが失われ、低カリウム血症になります。低カリウム血症になると筋肉の痙攣や麻痺や不整脈を起こしたりします。
治療としては下痢や嘔吐で失った水分や塩分を補うことが優先です。重症の場合は抗生剤を投与します。
ここで日常で使えるワンポイントアドバイスです。
食中毒が疑われる下痢の時は下痢止めは使ってはいけません!
下痢というのは本来細菌などを体外に排出しようとする生理機能です。そのため安易に下痢止めを使ってしまうと細菌を体外に排出できなくなってしまいます。
異常な量の下痢などがある際にはまずは医療機関に相談するようにしてください。
コレラの世界史
コレラは非常に感染力が高く、これまでに7回もの世界的流行を引き起こしています。
最も古いコレラの記録は紀元前300年のものである。原発地はインドのガンジス川下流での風土病と考えられている。
この風土病が世界へと広がるのは言うまでもなく、産業革命を経て世界間の交流が密接になったことが原因です。
初めての世界的大流行を起こしたのは1817年です。
インドのカルカッタで流行し、それがアジア全域、アフリカへと波及した。流行は1823年まで続いた。
1826年再び流行し、ヨーロッパやアメリカにまで波及し、甚大な被害をもたらした。
当時インドはイギリスの最大の植民地であり、ヨーロッパへ波及することは必然と言えます。インドで作った大量に作らせた綿花をイギリスが機械で大量に綿糸を生産することから産業革命は始まっています。イギリスはインドから綿花、紅茶だけでなく、コレラまでもれなく吸い上げてしまったのです。
また19世紀、産業革命が起こったヨーロッパでは地方から都市に人口が流入し、一気に過密化しました。
しかし機械化に伴い多くの人が職を失い、労働者は劣悪な環境で長時間労働を強いられ、スラム街や貧民街ができ、工場による公害、街にはゴミや排泄物で溢れており、きらびやかなイメージとは真逆でした。
そんなヨーロッパの大都市の環境はまさに「感染症培養器」であり、感染症にとっては願ってもない環境でした。
ヨーロッパでこのコレラが大流行したことは想像するに難くないと思われます。
イギリスでは死者が14万人にも達した。パリでも2万人、フランス全土では10万人が亡くなりました。当時は感染者の半数が亡くなり、とても恐れられていた。
計7回の流行で数千万人が死亡したと言われている。その後防疫体制が強化され、大流行は起こらなくなった。
コレラと日本
日本にもコレラの波は例外なく及びました。
初めて日本に上陸したのは1822年九州で流行し始め、東海道まで及びましたが江戸には達しませんでした。
1858年に再び流行し、3年にわたり大流行となり、諸説あるが江戸だけで数万から10万人の死者が出たとも言われています。
ペリーが日本に来航したのは1853年。その際にペリー艦隊の乗組員のひとりがコレラに感染していたために、長崎に寄港した際感染が広がりました。
西洋=病原菌とみなす考えが当時の外交を排除しようとする攘夷思想に拍車をかけました。
明治時代にもコレラの流行は起きています。江戸時代の関所が防疫の働きをしていたとも言われており、明治になり関所が廃止されると感染症の流行も容易となりました。2ー3年間隔で数万人単位の患者が出ていました。
コレラがもたらしたもの
しかし今までもそうであったように感染症の流行は良くも悪くも歴史を変えます。
天然痘ではワクチンという概念が生まれ、ペストでは農奴制の崩壊、キリスト教への不信感による中世の崩壊などが起こりました。
このコレラによって新たに公衆衛生という概念が生まれます。
汚染された水から感染すると考えられるたため、上下水道が整備されるようになったことは歴史的な進歩です。
イギリスのロンドンではそれまでテムズ川に下水を流し、そのすぐ近くの上水道口から上水道として水を引っ張っていました。
今となっては考えられませんが当時はそれが常識でした。
そのような環境の水を飲料水とすれば感染症が起こるのは必然といえます。沸騰させれば、という意見もあるかもしれませんが、それができるのは上流階級だけ。今と違いガスも蛇口をひねれば出た時代ではありません。
1855年イギリスはテムズ川の下水道工事に着手しました。
またこの後に水を消毒するという画期的な方法が生まれました。
このようにコレラは近代公衆衛生改革の生みの親と言えるのです。
コレラの現在
現在日本でコレラというワードを聞く機会はあまりないと思いますがこれは日本が恵まれているだけです。
世界では毎年130万人から400万人の人が感染し、10万人から14万人の人が亡くなっていると考えられています。
感想
このように感染症の歴史を見ていくと、人口、文明、感染症は3つでセットなのだなと痛感させられます。
文明が発達し、人が密集するようになれば必ず感染症が蔓延する。文明が発達し、森林開発を行えば今まで接することがなかった動物と接する頻度が増えることで未知の感染症が出現する。
歴史は常にこれを繰り返しています。近年新興感染症と言われる未知の感染症の流行の頻度が多くなっているのも、文明が急速に発達したこと、グローバル化が急速に進んだことが大きく関わっています。
今回の新型コロナウイルスの流行も大きな視点から見れば必然と言えるのかもしれません。
ではでは
新型コロナの重症化の仕組み
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
今日はなんとNCCの記念すべき第1回イベントでした。
薬剤師から保険会社に転職された中林さんをゲストにお招きしてzoomで講演をしていただきました。
とても参考になるお話ばかりで、特に
何か行動する際whyまで話を落とし込まなければ、自分も納得できないし、人を動かすことはできない
というお話は非常に共感できました。医療者は就活が一般の人に比べると大変ではないため、徹底的な自己分析を行うことはあまりありません。
それが逆にあだとなり自分の行動に目標や価値観を見出せずに日常を送ってしまう。
とてもためになるお話でした。
さて本日紹介する記事は新型コロナウイルスについて新たに発見されたことについて紹介したいと思います。
https://www.sankei.com/smp/life/news/200503/lif2005030074-s1.html
今回新型コロナウイルスにおいて重症化するメカニズムが解明されました。
新型コロナウイルスに対する治療の難しいところは重症化する患者と軽症者との判別が難しいことでした。
韓国で流行したSARSのように全員が重症化するのであればクラスターを追いかけやすく、対策もしやすく、収束も早かったです。
しかし新型コロナの特徴は皆さんもご存知の通り、軽症者、無症状の人が多いせいで、クラスターが見えなくなってしまい、気づいたら感染が拡大していることです。
量子科学技術研究開発機構理事長で免疫学が専門の平野俊夫氏らは、免疫がウイルスを打ち負かそうとするあまり過剰に働き、暴走して炎症が広がり重篤化する可能性を突き止めました。
免疫の仕組みを担っているのは「IL-6」と呼ばれる低分子のタンパク質で細胞間の連絡物質を担っている。
このIL-6が過剰に分泌されることによってウイルスに感染した細胞だけでなく、正常な細胞にも攻撃する。
死亡した患者はIL-6の血中濃度が顕著に上昇していた。免疫が過剰に反応することで正常な細胞にも害を及ぼしてしまう病気は意外と多い。例えば、女性に多い関節リウマチもそうである。
重篤化する際IL-6を阻害する「アクテムラ」が有望視されている。これの治験が始められるようである。
新型コロナの重症化の特徴として全身に現れることがある。これは受容体が鍵を握る。
ウイルスの表面にあるトゲトゲが受容体と鍵のように組み合わさることで、増殖して炎症が起きる。
ACE2受容体に新型コロナウイルスがくっつく。新型コロナウイルスが味覚や嗅覚にまで症状が出るのは全身にACE2受容体が分布しているからです。
ここに関してはナファモスタット、カモスタットが受容体に結合して活性することを防ぐようです。
今後も最新の情報が出たら更新していきたいと思います。
ついこの前もレムデシビルについて話題になりましたね。レムデシビルについても後日書いていきたいと思います。
ではでは
4月を振り返って
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
このブログも初めて1ヶ月以上が経過。
4月は社会情勢も僕としても激動の1ヶ月だったので少し振り返りたいなと思います。
どの行動にどんな目的があるのかをしっかりと明確にするために書きます、お付き合いください。
4月始めたたこと
・ブログ始めた
・研究室に入り始めた
・NCCという医療団体を設立した
・箕輪編集室に参加した
自分で変わったというのはおこがましいですが、受け身ではなく能動になったのは間違いなく病気のおかげだ。
病気になる前は「将来どうしよう。医者にも興味あるけどモチベ上がらんな、まあめんどくさいからなんでもいいや」と言うような典型的なダメ医学生。
色々自分から行動してる人を見て「うわーすごい、意識高いね〜」と揶揄するようなクズたった。
4年生になってから病気が発覚し、つらくて孤独な入院生活を経て、
「自分は人より命が短いかもしれない」
「自分のやりたいことって本当にこれでいいのかな」
と真っ白な病室で1人考えた。
入院生活が終わり、自分は医療だけがしたいわけではない、自分の人生が短いならやりたいこと全部やろう、そういうマインドセットになれたことは大きな収穫だった。
自分の考えを形にして「何者」になりたい。そう考えた時に起業したいと思った。そのためにまず自分は社会というものを知らなすぎた。だからまずは本で勉強を始めた。
第2のターニングポイントは村本先生との出会いだ。村本先生の話を聞いて自分もこんな生き方をしたいと再確認した。早くも師匠だと思ってます。
もともと悩むタイプの人間であった自分にはこの状態で起業しようという勇気はどうしても持てなかった。
起業してる人にはとりあえずやってみないとダメだよと言われることはわかっているが僕は計画立ててやっていきたいと思っている。
ただ、これだけは絶対やると決めたことがある。
学生生活残りの2年間で何で起業するかを決め、それを具体的に形にする。
ブログとSNSを始めたのは、同じような意識を持った人、あるいはもう起業してる人と繋がり、自分のことを認知してもらうため。
またブログで医療関連を書こうと思うと情報収集を強制的にさせられるので情報は増えたという点も良かった。
研究室に入り始めたのは産業医というものを本格的に学ぶため。
自分は臨床よりも予防医学だったり、職場のメンタルヘルスであったり、病院に来る前の人を助けた方が効率が良いと思っている。産業医はぴったりだった。
産業医をバイトでやる人も多いが自分は産業医を生業としても良いかなと思っているので、研究室に入ることで早くから専門的に学べると思ったからだ。
残念ながらコロナの影響で研究室は立ち入り禁止で何も今はできていないのだが…
NCCを立ち上げたのは悩みを共有できるコミュニティ、仲間が欲しかった。自分の周りにこのような相談できる友達がいなかった。
同じような悩みを持った人は絶対いると思うから、その人達と悩みを共有したり、どんな選択肢があるか一緒に学んだり、自分自身のやりたいことと向き合えるそんな場にしていきたい。
みの編に入ったのは勉強のため。将来オンラインサロンを経営したいと思ってるのでオンラインサロンがどういうものなのか経験してみたかった。
また経営、デザイン、PRなど色んな授業がありそうだったので勉強になるかなと思った。
1番はおもろいやつを見つけたい。自分が今まで関わったことない人たちと絡んで色んな考え方を知って自分に取り込んで、一緒に楽しめる仲間を見つけたい。
激動の1ヶ月ではあったが、全部まだ入っただけ。ここで何をするかは今後の自分次第。どれも中途半端にせず自分の糧にしていきたい。
でもまずは第一関門のフライアウェイには成功したのだろうか。
それまではやりたいことがあっても、「めんどくさいしいいや」と思っていた。
というより多分失敗するのをダサいと思ってた。恥ずかしいと思ってた。
だけどそんなことなかった。Twitterを始めて色んな形の医療者がいることを知ったし、同じ学生でも色んな行動をしている人がいた。みの編にも自分の目的のために自分で手を動かしてる人がたくさんいた。
そのみんながすごい輝いて見えた。自分の考えを持って、自分の目標を持って行動してる人が本当にカッコいいと思った。
意識高い人を揶揄していた自分に言ってやりたい言葉ができた。
身長も鼻も高くないんだから意識くらい高く持てよ
これは僕が思いついた名言。今後流行らせていきたいと思っている。
ただ意識だけではなく実行することが大事。これからダイダロスとなるかイカロスとなるかそれは自分次第。
イカロスは飛んではいるからダメではないのかしら?
ではでは
世界の歴史から見る感染症シリーズ〜第2弾ペスト〜
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
今回は前回かなり好評だった「世界の歴史から見る感染症」シリーズ第2弾やっていきたいと思います。
今回紹介する感染症は
ペスト
別名黒死病。伝染病といえばペスト、というくらい有名ですね。
皆さんはアルベール・カミュの『ペスト』という小説をご存知でしょうか。
不条理の哲学を打ち出した、カミュといえば『異邦人』『シーシュポスの神話』が有名です。
このカミュが、病気という不条理に翻弄される人間について書いているのがこの『ペスト』です。ペストに襲われた街がロックダウンし、その街の人々の感情の変化、行動の変化が鮮明に描かれています。
普段読む分には面白いなぁと思うだけかもしれませんが、今の時代とリンクして読むと、僕は怖いという感情さえ抱きました。現在新型コロナによって起きている社会問題のほとんどがこの『ペスト』に予言かのように書かれているのです。
この本、今爆売れしてるみたいです。この機会にぜひ一度読んでみてください。
それでは行って見ましょう!
目次
ペストの症状
ペスト菌によって引き起こされら病気。ネズミに付着しているノミによって感染が拡大します。
ペストはノミからヒトにしか移らない腺ペストと、ヒトからヒトへ移る肺ペストの大きく2つに分けられます。
腺ペストは潜伏期間が2〜5日、リンパ節の腫れ、悪寒(寒気)、発熱が起こり、急速に進行してせん妄状態(精神錯乱)に陥ります。治療を受けなければ60%以上の人が亡くなります。皮下に黒い出血班を出す場合があり、黒死病と呼ばれました。
肺ペストは肺への感染が起こり、腺ペストの症状に加え、血痰(痰に血が混じったもの)、呼吸困難におちいり、48時間以内に死亡します。
現在は抗菌薬を用いることで治療することが可能です。
ペストと世界史
ペストはこれまでに3度の世界的大流行が起きています。
近年の研究によるとペスト菌の起源はシルクロードの要衝である天山山脈周辺に定着していたとされている。
前回の天然痘と同様、2〜3世紀頃シルクロードによって東西の大帝国、東の漢、西のローマが交易を活発にするに従って、天然痘は西から東へ、ペストは東から西へと渡るようになった。
1度目の大流行は543年の東ローマ帝国、ユスティニアヌス帝の時に発生した。
当時、強大な力を誇ったローマ帝国は分割統治により東と西に分かれ、西ローマ帝国はその後有名なゲルマン民族大移動により滅亡の道を辿ります。
ユスティニアヌス帝もこのペストになったが奇跡的に回復している。当時の歴史書『戦史』にはその惨状が克明に記されており、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)では毎日5000人もの死者が出て、市の人口の4割が失われたと言われている。
2度目の大流行は中世のヨーロッパで流行した。これが皆さんの印象にあるペストでしょう。
13世紀、14世紀といえばモンゴル帝国の時代であります。かの有名なチンギス=ハンが東は朝鮮から西はポーランドまで、ユーラシア大陸のほとんどを手中に収めていました。
これにより東西を結ぶシルクロードをモンゴル帝国が一括管理することで、通行料、関税を一律化され、東西交易がより一層活発になった。
また駅伝制(一定間隔で宿舎、食料、馬を配備した宿駅を設置)を用いることで交易、情報は大陸内を縦横無尽に駆け巡った。
これにより、中国で開発されていた羅針盤の原型や火薬などが西洋に伝わり、大航海時代へと繋がっていきます。
様々な恩恵とともに、ペストという負の遺産まで例外なく西洋にもたらすこととなりました。
このペストが流行した1348年から1400年の間、ヨーロッパの全人口の30%から40%にあたる2500万人から3000万人が死亡し、フランス南部からスペインにかけては8割の人口が失われたと考えられています。
ここまでの大流行を引き起こした原因として様々なことが考えられているが、一説を紹介します。
10世紀から14世紀にかけ、中世温暖期といわれる気候を背景に中世農業革命と言われる技術革新が起きた。
水車の利用や鉄の農機具への応用により、生産性が大幅に上がった。食糧増産を背景にイギリスドイツフランスを中心に人口が急増した。
過剰な人口増加により食糧不足が発生する中、1314年の異常気象が発生した。その後異常低温と長雨が数年続き、ヨーロッパ全域で食糧危機に陥っていた。
この危機の最中、ペストが追い討ちをかけるかのごとく襲ったと言われている。人口増加の結果ゴミが道路に投棄され、人間や動物の排泄物が悪臭を放ち、ベストを媒介するネズミの絶好な繁殖場になった。
ペストは中世社会を終わらせたと言われている。
人口の急激な減少により農村部から人が消え、荘園領主と農民の力関係が逆転した。当時土地を持っていた荘園領主に農民は年貢を払う形で働かせてもらっていた。しかし働き手がいなくなったことで荘園領主は給料を払って農民を雇わざるを得なくなった。
その結果農民が力を持ち始めジャックリーの乱、ワットタイラーの乱といった農民反乱が起こるようになった。
またペストにより人々はキリスト教への信頼をも失っていった。得体の知れない病気を災いと思い、人々は救いを求めて教会を訪れたが、神父たちは安全な場所へと逃げ、人々は見捨てられた。これが後の宗教改革へとつながっていく。
しかし意外なところにもペストは影響を与えていた。
その後ペストは断続的に続き1665年にロンドンを襲った。
ペストによりケンブリッジ大学が閉鎖されたため、かの有名なニュートンは故郷に戻り、万有引力の研究に没頭した。
彼の生涯の業績のほとんどはこの1年間に集中しており、「ニュートン驚異の年」と呼ばれている。ペストがなければ今の物理学は存在していなかったかも知れない。
3度目の大流行は1894年に中国で始まり、香港に飛び火し、海上ルートを経て太平洋一帯へと拡大した。
日本にも1899年神戸港に入港した台湾船の船員から感染が拡大した。その後大小の流行を経て、2215人が死亡した。1927年以降はペストの国内例はない。
アメリカ、オーストラリアにも流行は拡大し、死者をもたらした。
ペストの現在
2010年から2015年には世界で3248人の患者が報告され、584人が死亡しています。
現在でもペストが見られる国はマダガスカル、コンゴ共和国、ペルーの3カ国が主となっています。
現在でもワクチンはできておらず、抗生剤を投与することで治療します。
感想
いかがだったでしょうか。一つの時代をも終わらしてしまう感染症の恐怖を感じていただけたと思います。
また世界史で習ったことの裏側にもペストが関与していたり、思わぬことがペストの流行に繋がったり、逆にペストのおかげでもたらされたこともありました。
ペストは過去の病気だと思われがちですが、2019年の11月ご近所の中国で肺ペストの患者が出て、一時期話題となりました。
新型コロナに話題をさらわれたのか、大流行はもたらさなかったようですが。
僕は最近世界史を多角的な視点、例えば移民、財政、感染症の視点から勉強することが在宅中の趣味となっています。
様々な視点から勉強することで時代の出来事というのは1つのことから生み出されているのではなく、多くのことが絡み合ってできているのだと実感することができます。
皆さんもこの機会に感染症の歴史、勉強して見てはいかがでしょうか。
ではでは
デジタル聴診器登場、聴診器も遠隔化へ
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
先日書かせていただいたNCCの記事たくさんの方に読んでいただいてとても嬉しいです。
それだけ医療系学生が悩んでるのかなと実感しました。
資格が必要な仕事にありがちだとおもいますが、大学に入ってしまった時点でほとんど道が決まってしまいます。
もちろん医療に関係する仕事は責任感を持たなければなりませんが、医療以外の道もあり、悩む権利は僕らにもあります。
少しでも多くの人が自分自身と向き合って進みたい道に進める手助けができると同時に、自分も進みたい道に進める努力をしていくつもりです。
5/15に第2回オンライン飲み会をやる予定ですのでぜひいらしてください!
さて長くなりましたが本日ご紹介する記事は最先端医療についてです。
記事の内容
なんと200年ぶりに聴診器がイノベーションされ、デジタル化されたました。
医療ベンチャーのシェアメディカルとSUNDREDが2019年8月8日聴診データ研究会の設立とデジタル聴診器「ネクステート」を発表しました。
聴診器に内蔵されたアンプにより音量調節が可能
騒がしい環境でも正確な聴診が行える
聴診器をデジタル化することで聴診音を保存、共有できること
が特徴として挙げられます。
データ集積によるAIへの応用にも期待が高まっています。またBluetooth通信によりデータ転送も対応してるため、遠隔医療の応用も待ち望まれてます。
考察
記事が少し前のものになりますが、かなり衝撃を受けたと同時に、ワクワクが止まりませんでした。
まさかもうすぐそこに遠隔聴診器の時代が近づいているとは夢にも思いませんでした。
遠隔診療の課題点の一つとしてあげられるのは対面診療に比べて触診、聴診(心音や肺音)の情報が少なく、視覚や音声に頼らざるを得ないことでした。
しかし聴診の操作が遠隔で可能となればかなり強力な診断材料になり得ます。
また聴診音がデータ化され共有が容易となれば医療教育の面でも大きく貢献します。
現在聴診音のCDや音声データなどがあり、それを用いて典型症例の音の特徴などを学びます。
これもかなり進歩した結果だと思いますが、実際の患者さんの音を聞いてみても、どこを根拠に判断しているのかわからないことも自分自身結構ありました。
しかしこのネクステートを用いれば、聴診音がデータ化されるため、指導医と同じ音を聞き、どこに注目したかをリアルタイムで共有することができます。
またデータを集積することで将来的にAIによる聴診診断の一助となる可能性も秘めています。
臨床に出てくるのはまだ先なのかもしれませんが今回のコロナウイルスの一件で普及が早まったりする可能性は十分考えられると思います。
ではでは
悩める医療関係学生たちへ、NCCに来れ
どうもおはこんにちばんは、くんひろです。
今回はご報告があります。
医療系学生で自分のキャリアに悩みんでる人
医療の道に進んでみたけどこれで良いのか自信が持てない人
いろんな世界を見てみたい人
ぜひぜひ読んでみてください。
私くんひろは新たにNCCという医療コミュニティを立ち上げました。
NCCはnon clinical careerの略です。
医療者、医療系学生の臨床以外のキャリアを見つけることを趣旨としたコミュニティです。
最大の魅力は医学部だけではなく、看護、歯学部、薬学部、PT、OTなど全医療関係者が参加可能な点です。
僕は医師の道にも興味がありましたが、高校の時から文系科目も大好きだったので、医者という狭い世界だけでなく、広い社会にちゃんと出たいという思いがありました。
医学部に入った理由も親の影響、周りの友人の影響も大きく、正直明確な理由があったのかと言われると自信を持てなかったです。
大学生活もなあなあで生活していた折、病気という大きな経験をしたことで
もしかしたら自分の人生は人よりも短いかもしれない
自分の本当にやりたいことはなんなのか
について入院中ずっと考えていました。
臨床の世界よりも産業医や予防医学の方が興味があること、
医療関係で起業したい
これらの自分の正直な気持ちを見つけることができました。
しかし、僕の周りで臨床以外に興味ある人がいなくて相談することができず、想いだけが心の中で燻っていました。
何かしなきゃ変わらないだろうと思い、自分で本を買って、起業について勉強したり、お金について勉強したりしていました。
そんな時、SNSで村本先生を見つけ、共通点も多かったのでダメ元で面会のアポを取ったところ快諾していただきお会いすることになりました。
様々なお話を聞き、やはり自分も村本先生のように医師と同時に起業という道を歩みたいと再確認できました。
そこから本格的にブログ、Twitterを始め、試行錯誤の毎日です。
ブログは当たる記事もあれば当たらない記事もあるし、Twitterはフォロワー全然増えないしと悩んでいた時、Twitterのタイムラインでハッティーさんとよしぬんさんが医療コミュニティを作ろうという話をしてたので、勇気を出して「僕もやりたいです」と言ったところ、なんとNCCという新しいコミュニティを運営するに至りました。
僕みたいに医療関係の道に進んだ人でも他の道に進みたかったり、自分のやりたいことに悩んでる人は確実にいると思います。
でもそんな考えを持ってる人は多分少数で周りの仲間には中々相談できない。
このコミュニティの目標は
そんな人たちが気軽に悩みを共有できる場を作ること
自分たちにはどのようなキャリアの選択肢があるかを学ぶこと
様々な企画を通して自分のやりたいことを見つけてもらうこと
だと思っています。4/26第1回NCCオンライン飲み会を行ったところ、ありがたいことに12人も参加者が集まってくれました。
今回集まった12人の中にも様々な人がいて、人それぞれの悩みを抱えており、それを共有することができました。
自分も悩みを共有できる仲間ができたことがとても嬉しかったです。
運営のハッティーさんは慶應医学部を卒業するも医学の道に進まないことを決意してる異色のキャリアをもちカリスマ性がある人、よしぬんさんはとても優しく、顔が広く様々なところに気が利くし、運営の知識も豊富です。
今のところ僕はあまり役に立てていませんが2人の姿を間近でみて、コミュニティ運営の術、企画の作り方など多くのことを学んで早く役に立つようになりたいと思っています。
もしあなたが僕と同じような悩みを抱えるていたら、まずはオンライン飲み会から参加してお話してみませんか?きっと何か新たな出会いが待ってるはずです!