医者が起業してもええじゃないか

現役医学生が起業家を目指す。起業、医療、ITなど様々な分野を勉強して起業に向けて突っ走る、そんな体験記

難病医学生の闘病日記

久しぶりの投稿となります。今日は自分の中で一つの節目の日となったので今の心境をつらつらと書こうかなと。
今日で病気の治療がひと段落つき、「寛解維持」(病気が落ち着いたねということ)という判断をしていただけました!
1年間の闘病生活がようやく一区切りしました。個人的には激動の1年間でした。病気を宣告されたときから考えると1年半。もちろんもっと長い闘病生活で頑張ってらっしゃる方もたくさんいると思いますが、個人的にはとても長く感じました。
フェーズ毎で自分の気持ちを振り返って書いていきたいと思います。興味があればお付き合いください。

 

難病宣告

去年の2月、今までと何も変わらずダラダラと毎日を過ごしていた日々。いつもと変わらないと思っていた健康診断の尿検査でまさかの再検査。
何かの間違いだろうと思ってもう一度検査を受けた。医者から言われたのは「大学病院に紹介するのでできるだけ早く受診してください」
頭の中が真っ白になった。ない知識で自分の病気が何か必死で考えた。それでもまだどこか検査のミスだろうと信じたかった。
3月。医師からの宣告。「IgA腎症(腎臓の病気、治療法がまだなく難病指定されている)だと思われます。検査入院が必要です」それ以降医師の言葉は耳に何も届かなかった。何か悪いことをしたのだろうかと必死に考えた。この前飲み会の帰りに立ちションしたからか、それともスーパーで箸を5本くらいもらったのが原因か。月並みな言葉ではあるが「なんで自分が」。その時の心境を表すのはまさにこの一言に尽きる。まして、医師を志していた自分が病気。しかも治療法が効くかもわからない難病に。
医学部では必ず「キューブラー・ロスの死の受容」というものを学ぶ。これは患者の心理を5段階で表したもので、否認と孤立、怒り、取り引き(祈り)、抑うつ、受容に分かれる。今まではただの勉強するだけの用語であったこれらのものが一気に自分に襲いかかってきた。(自分の場合は死ではないが)
この時はまさに「否認と孤立」であった。病気であることを認めたくなかったし、嘘だと信じたかった。おそらく人生で一番泣いた。受け入れる事なんてできなかった。怒り、神に祈った。何でもするから治してくれと。春休みはアホみたいに遊びまくった。逃げたかった、病気という現実から。しかし何をしていても頭の片隅には病気のことが常にあった。


検査入院

5月。人生で初めて入院した。まだ自分が病気という自覚はあまりなかった。しかしこの後僕は人生で出会ったこともない痛みに遭遇するのであった。
それは尿道カテーテルである。尿道カテーテルとは手術や長時間動けない人、排尿が難しい人に対して、尿道に管を入れて自動的に排尿させるものである。
激痛という言葉では表せない痛みであった。そんな太い管が本当に入ると思っているのか?これを考えたやつは本当に人間なのかと思った。
尿カテ入れることに比べたら腎生検の痛みなど屁でもなかった。その後1日はベッド上安静
で寝返りも禁止。動けないことがこれほどにツライとは思ってもいなかった。尿カテ&ベッド上安静のコンボが22年の人生を振り返ってもこれに勝る痛みは未だにない。


入院

6月。IgA腎症と確定診断され、治療のために1ヶ月半の入院が必要となった。実習の関係上
夏休みしか入院できるところはなかった。
その時ふと脳裏をよぎったことは「東医体行けないのか」ということだった。当時自分は部活の幹部をしていたこともあり、練習試合を組んだり、遅くまでミーティングしたり。全ては東医体でみんなで笑って優勝するためだった。それなのに東医体に行けない。頭では分かっていたつもりだったけど、やはり部活は自分にとって大きな居場所だったということを再認識した。
この時には自分はもう病気については受容していた…つもりだった。
7月中旬。入院生活開始
CBT(実習に行くためのテスト)直前だったこともあり、入院中でも勉強しなきゃいけないことは分かっていた。
点滴、勉強、昼飯、勉強、夜飯、勉強の何もない生活。
白い部屋、白い天井、白いカーテン、何もない空間。
それら全てが僕の心を蝕んだ。何もできない、苦しい、息が詰まる。
虚無感。それしか感じなかった。みんな夏休みで遊んだり、部活してる中なんで自分はこんなに苦しまなければいけないのだろうか。受け入れたつもりだった病気について嫌でも24時間考えさせられた。
辛い入院期間なんとか耐えられたのは家族の支えとお見舞いに来てくれた友達だった。周りの人に支えられてることを本当に実感した。いくら感謝してもしきれない。ありがとう。

退院、通院

8月下旬。辛かった入院生活も無事に終わり、後は治療の成果を外来で徐々に見ていくとのことだった。なんとかすれすれでCBTも合格できた。

2ヶ月に1回の外来。いつもドキドキした。難病であるから治療が効かないこともあるとは事前に言われていた。病気が進行していたらどうしよう。検査の値が良くならなかったらどうしよう。入院が終わっても気が完全に休まることはなかった。
それでも徐々に病気と長く付き合っていくために何をすれば良いかを理解し始めた。昔のような激しい飲酒、暴飲暴食は禁止。塩分やタンパク質を控えるために自炊をしたり、過度な運動は控えたり。
1月。この生活にも慣れ、気が緩み始めた。あまり食事も気にしなくなったり、薬を飲み忘れたり、旅行に行ったり。まさにそのツケが検査値に表れた。今まで横ばいであった検査値が唐突に悪くなったのだった。
後悔した。まだどこか甘く見ていたのだと思う。やっぱり治るじゃんと。
そこからは本当に生活を見直した。毎日自炊したり、水分を多くとったり、薬の記録をつけたり。何種類もの薬を毎日同じ時間に欠かさず飲むということがどれほど難しいことかを実感した。老人にはもっと大変だろうと思う。
7月。ついに予定していた外来の最終日。これで何もなければ治療は完全に終了。いつも以上に緊張した。病室に入るとパソコンを見ながら先生が黙っていた。祈りながら先生が口を開くのを待った。しゃべり始めるまでの間異常に長く感じた。

「よく頑張ったね、寛解維持できてるから治療はこれで終わりだよ」
急に言った先生の言葉に涙が出た。やっと、やっと…。

まとめ

意外にも病気になって失ったものよりも得たものの方が大きかった。
病気、自分の人生と嫌でも1年間向き合わされたことで自分が人生で何をしたいのかを考えさせられた。
本当に医者になりたいのか。これが最大のテーマだった。
医学を志した理由として人に言えるほど確固たるものは元々持っていなかったため悩んだ。あまり医学は好きではなかったが勉強したり実習することで面白さが少し分かった気がする。
自分に何ができるかまだわからない。

しかし医師×患者である自分にこそのかの人にはない価値があると思っている。

「患者の痛み」というものは医師にはわからないということが自分の経験を通してはっきりと理解できたからだ。

医師以外の選択肢があるということを知れたのも自分の中では大きかった。医師でありながら、他の活動(例えば作家、ミュージシャン、起業、シェフなどなど)をしてる人がたくさんいた。今はそんな人たちの話を聞くのがすごく面白いと感じている。縛られなくていい、やりたいことをやればいい。

医師としてだけではなく、1人の自分という人間として価値を持たせられるよう、後悔しないように生きていきたいと今は思っている。
病気になったことを後悔するのではなく、気付けたことを大事にして後の長い人生上手いこと腎臓と付き合っていきたいと思います。
長くなりましたが読んでいただいた方ありがとうございます。